由緒・歴史

沿革

当寺は、今から約330年前、佐賀藩主、鍋島光茂公、綱茂公らの熱心な帰依を受けた、黄檗開祖隠元禅師の直弟子即非禅師の法嗣、桂巖禅師を開山禅師として勧請、諫早4代領主の奥方、伊勢姫「霊光院殿聴松實操大師」を開基、諫早家の佐賀での菩提寺として、天和3年(1683)神埼の安国寺末であった即宗庵再興の許可を得、元禄16年(1703)9月、当時の寺社奉行・小城臨済宗圓通寺から大興寺の寺号を受け開かれた、京都宇治黄檗山萬福寺を大本山とする黄檗宗の末寺です。 江戸時代の終焉により大檀越諫早家の撤退、七堂(本堂、庫裡、禅堂、楼門等)整えられていた大伽藍も売却や風水害での罹災により、往時の姿は明治初期には既に無く、その後大正7年までに前世代まで親しまれた小堂が建っておりました。他に例の少ない特徴ある鳥居式石門(当時は現在より30m南に建つ)からの桜参道には出店も並ぶ賑わいがあったといわれています。 しかし、この景観も昭和40年代の大幅な区画整理により寺域の縮小を余儀なくされ、さらには平成18年2月13日未明の火災により本堂、方丈を全焼。寺宝の多くを焼失。これによって、檀信徒、関係縁者の多大なる協力をまたも仰ぐこととなり、平成21年に本堂、位牌堂が竣工、平成24年6月3日、本堂お披露目となる樂成法要が厳修され、現在に至ります。

特色《見どころ》

  • 本堂・・木部の赤色と白壁のコントラスト
  • 堂内の石張り等は、黄檗様式と呼ばれる大本山萬福寺や親寺である長崎・崇福寺に倣ったもの
  • 卍崩しの勾欄・・大本山法堂前の紋様に肖る
  • 裳階部の蛇腹天井・・本堂正面扉前、その天井の作りが参道から龍がお堂を巻いて守ると云う謂れがある
  • 正面扉の桃戸・・桃に魔除けの謂れがある>
  • 阿吽の形相をした鬼瓦・・各方向に向けて邪気を払う、東西に阿と吽の表現が異なる
  • 桟を外に向けた円窓・・日、月を表現した正面左右の窓
  • 本堂前の月台・・月の光を反射させ本尊を照らすとされる敷石を正面においた周りを海に見立てた堂前石庭
  • 本尊・釈迦如来坐像・・黄檗渡来後その作風の影響を受けた仏師によるとされる本尊。禅定印(悟りの姿)を結ぶ。
  • 本堂焼失前の本尊も同じ印相の姿であった、祝融佛として西単に祀る
  • 天井の龍、16種の花の彫刻 (300年の歴史の中で何度となく繰り返された災禍にもう二度と遭わないよう祈念し、山号そのままの瑞龍を天井にお祀りする)
  • 禁牌石(きんぱいせき)  「不許葷酒入山門」(葷酒山門を入るを許さず、禅宗の寺院で、かつての修行道場には山門脇に必ずおいてある入門者の最低心得)
  • 鳥居式石門 「向かって右に 祖徳乾坤大、左に 宗献日月長と聯の様に彫る。天保 年建立。石工は平川善右衛門、通仙和尚代。当初は現在の場所より30m以上南に建てられたが、昭和40年初頭の区画整理で、禁牌石と達山和尚中興碑の大聖観音石像とともに現在地に移設された。同じ様な鳥居式の石門は、通仙和尚が歴住した長崎市滝の観音 霊源院と諫早市の性空寺、鹿島の普明寺にもあり、この4か寺の中では一番新しい作」
  • 大聖観音をはじめとする思惟、如意輪などの観音石像。地蔵菩薩石像
  • 江戸時代作と現代作の羅漢石像。布袋尊(弥勒菩薩)石像
  • 鳥獣含霊塔(江戸時代の家畜供養墓)
  • 諫早家霊廟(弥勒四十九院様式)
  • 樹齢推定300年の大楠(佐賀の県木)
  • 昇龍松、臥龍梅・・参道にある象徴的などちらも樹齢100年以上の古木

■ 古地図にみる大興寺 中佐嘉郷三溝村 寛政4年(1792)

佐賀県立図書館のデータベースにて、220年以上前の地図に今の本堂を彷彿とさせる表現で描かれているのを知ったのは、現本堂の樂成法要の直前でした。鍋島史記に伝えられたその威容は、その絵地図にみられる他の寺院の描き方とはとは違い、偶然とはいえ位置といい形といい本堂の絵、伝えでのみ在ったという山門そしてその敷地の広さには驚きました。
http://www.sagakentosyo.jp/ezu/zoomify/go0/go0121/0121.html

開山桂巌禅師

桂巌明幢【1627(寛永四年)~1710(宝永七年三.六)】
道号桂巖、巖は岩とも表す。はじめ惟岳、光巨。信州松本の出身で、祖先には足利尊氏の弟直義の幕下、淵辺伊賀守があり、また太田道潅が遠縁に当たるという家柄の出。12歳、丹波の桐江庵で出家、その時の師僧の示寂の後、熊野の山中や河内金剛山麓に見桃亭と号する禅室を結び、12年という載月の後、鍋島丹後守光茂(佐嘉本藩二代)に請われ、佐嘉藩内の臨済宗東福寺派の春日山高城寺に入寺。寛文七年(1667)41才の10月に、小倉広寿山福聚寺の即非禅師(1616~1671)に参禅、同11年5月に神埼の宝珠寺開山となる翠峰禅師と共に入室、印可を付される。同年11月、宗祖隠元禅師の八十祝寿に登檗し、隠元禅師より桂巌の号を賜る。
寛文十年、肥前鹿島藩第三代、鍋島和泉守直朝(法号・普明寺殿高岳紹龍大居士、本藩初代勝茂の九男)に請われ、能古見(鹿島市三河内)の福源寺に入寺、先に復興開山した小城出身の梅嶺禅師とともに三年余勉学に精励、その後延宝元年に普明寺塔頭としての法泉庵を開き、延宝五年(1677)8月1日前藩主直朝、藩主直条、その兄格峰(断橋実外)によって発願、再興された円福山普明寺の開山として請われ上堂、大小の方丈、斎堂、鐘楼など整備し、6年後の天和三年五月一日祝国開堂。
また、普明寺より先、延宝二年(1674)多久に、後の見性山福聚寺となる鹿苑寺を開山、貞享二年に普明寺を退き嬉野市吉田の医徳寺に移り、その後諫早で元禄元年(1688)に佛母山性空寺、続いて痴雲寺を開山、元禄七年には佐賀へ、金立の栗棘山円珠寺に移る。更には元禄十六年(1703)佐賀での諫早家菩提寺を瑞龍山大興寺として開山、宝永四年に白石須古の阿弥陀寺復興にも関わり、卓龐寺として開山。そして、宝永七年三月六日、円珠寺方丈にて「生也呵々 死也呵々 呵々畢竟 呵々呵々」と遺偈を残し84年の行履に寂を示された。
禅師の行跡は、数々の末寺開山も、肥前鍋島領内にて広く最初期の黄檗禅を挙揚し、僧俗問わず教化流布に尽力した師の禅風を示すもので、法嗣の数は二十一名と、当時の傑出した黄檗和僧の大先師の一人である。

大興寺 歴代禅師 覚位 嗣法師と寂日

臨済正傳三十四世 當寺開山 桂巖明幢 老大禅師
嗣即非一 寛文十一年五月十日
寶永七年三月六日 示寂

臨済正傳三十五世 第二代 龍海実珠 禅師
嗣桂巖幢 元禄五年五月十九日
寶永六年一月五日 示寂

臨済正傳三十五世 第三代 祖信実誠 禅師
嗣桂巖幢 元禄五年六月五日
享保五年七月二十二日 示寂

臨済正傳三十五世 第四代 知足三代 愚極実能 禅師
嗣桂巖幢 寶永五年一月二十九日
享保三年九月二十四日 示寂

臨済正傳三十六世 第五代中興 達山際晏 禅師
嗣良遂文 正徳三年一月二十日
寶暦十一年七月二十一日 示寂

臨済正傳三十七世 第六代 自寶玄蔵 禅師
嗣達山晏 寛保三年一月二十七日
寛政三年八月十八日 示寂

臨済正傳三十七世 第七代 智弘玄徳 禅師
嗣達山晏 延享二年一月二十七日
寛政九年二月十一日 示寂

臨済正傳三十八世 第八代 慧亮達雲 禅師
嗣自寶蔵 安永六年十月五日
文政九年八月三日 示寂

臨済正傳三十八世 第九代 佛告達啓 禅師
嗣自寶蔵 天明六年六月一日
弘化元年十二月十四日 示寂

臨済正傳三十九世 第十代十二代再住 通僊悟眞 禅師
嗣慧亮雲 文政九年四月八日
安政四年五月二十三日 示寂

臨済正傳三十九世 第十一代 石瑞悟光 禅師
嗣佛告啓 文化十二年十一月二十八日
示寂年月日 不明

臨済正傳四十世  準世代監院 雪村奕香 禅師
嗣通僊眞 安政元年一月十五日
安政六年八月九日 示寂

臨済正傳三十八世 第十三代 佛心七代 智眼如常 禅師
嗣全肯重 文政十年二月十五日
明治元年一月九日 示寂

臨済正傳四十世  第十四代 慈航奕済 禅師
嗣通僊眞 安政元年一月十五日
明治九年二月二日 示寂

臨済正傳四十二世 第十五代中興 禅機聯活 禅師
嗣不昧心 明治五年十二月八日
大正七年十二月七日 示寂

臨済正傳四十三世 第十六代 敦宗紹榮 禅師
嗣禅機活 大正七年十二月十五日
昭和三十二年八月二十八日 示寂

臨済正傳四十四世 第十七代 英俊永公 禅師
嗣敦宗榮 昭和二十年一月二十三日
平成十三年十二月八日 示寂

臨済正傳四十五世 第十八代 福源十八代 浩樹興榮
嗣英俊公 平成六年一月二十七日