JR佐賀駅北口から歩いて8分、神野東3丁目にある黄檗の風光豊かな赤い本堂。石門をくぐると大楠の緑にバラと四季の花で彩られた、新しいガーデン墓苑が広がる境内。 300年の歴史からこれからの新しい供養の形を提案する、お参りも相談もしやすいお寺、大興寺
住職が兼務する寺
国道207号線から辻交差点で444号線に折れ山越えして大村へ向かう道、戦後の水害までは石組みのめがね橋が架かっていたと云われる旭橋を渡って琴路岳方面へ約1キロ。前を山に川に田んぼ、後ろもすぐ山、季節になればかのスギ花粉の飛散がはっきり見える、いえ、実に風光明媚な処に在り。
由緒によると、弘安2年(1297)鎌倉幕府の執権北条時宗が建長寺の住持に招聘した中国僧無学祖元禅師(佛光国師)が当地に立ち寄り、その景色景観が故郷を思い出させるような美しさと、不思議の力を得るような美味しい水が大変気に入り、念持佛を本尊に一宇を建立し、滴水庵と名付け鎌倉へ向かわれたという伝説があります。
それから約350年を隔て時は江戸時代寛文9年(1669)小城出身の梅嶺道雪禅師がその伝説を知り、鹿島3代藩主鍋島直朝公が開基として援助、福源寺として再興された。大正5年現在地に堂宇を移築し現在に至る。佐賀県の黄檗寺院としては、普明寺(1677)小城の星巖寺(1685)に先駆けて開山建立された最古刹となる。
かねてより大量な福源寺の蔵書の処遇に苦慮していたところ、佐賀大学名誉教授井上敏幸先生が中心となった佐賀大学地域学歴史文化研究センターの方々によって悉皆調査され、目録を作る作業が始まったのが平成21年。これを機に「肥前鹿島福源寺蔵書目録」、「肥前鹿島福源寺小志」が冊子として刊行され、井上教授には祐徳稲荷神社や九州国立博物館での黄檗展など度々ご講演して戴きました。
約5年の月日をかけて内容まで研究され、一点ずつに番号を標記し整理された約600点の書物、専用の古文書箱にして30箱、膨大な量の蔵書が寺に戻ってくることになり、開山梅嶺禅師の命により地域の人々が直接関わって345年護られてきたものを、現状の状態を保って保管していく為に、この度、本堂の一部を改修し、専用の書庫を増設しました。福源寺の開山時の伝説、由縁でもある無学祖元禅師(佛光国師)が開かれたといわれる前身の庵号に倣い「滴水文庫」と称して、今後、研究会の開催など、生の黄檗資料群の発信地としていきます。
特筆すべきは、江戸時代初期に出版された刊本の蔵書点数が佐賀県立図書館や普明寺のそれを大きく上回る数発見されたこと。梅嶺禅師の圧倒的な向学心、禅風の源の数々がここに在ります。
開山桂巖明幢禅師。